昨年末、米TIME紙が「Person of the Year(今年の人)」として
#MeToo運動でセクハラ被害を告発した女性たちを
「THE SILENCE BREAKERS(沈黙を破った人たち)」
として選び、女優のアシュリー・ジャド、歌手のテイラースイフト、
著名企業家らなどと一緒に、農園で働くメキシコ出身の一般女性が
並んで表紙を飾りました。
アメリカってすごいなあと思います。
日本だと、伊藤詩織さんにつづく#MeTooとして、
ブロガーのはあちゅうさんが、電通社員時代に大物クリエイターから
受け続けたとてつもなくひどいパワハラを告白されました。
ところが、一部のネット民が、はあちゅうさんの過去の「童貞いじり」
発言を糾弾しはじめて、#MeToo 告発したはあちゅうさんが、
謝罪させられることになりました。
(謝罪するようなことではなかったと私は思っていますが)
TIME誌を飾ったアメリカの女性たちにも、バッシングはあるのだと
思いますが、日本の場合は、特に女性の足を引っ張る土壌が根深いの
だろうと感じます。
#MeTooの流れに乗った女性が、どうしても「特殊な女性」と思われ、
悪目立ちしているように見られてしまう。
女性がそういうことで「沈黙を破る」のは歓迎されない。
メディアも扱うのが不得意。
ネット上で声をあげる女性には、あまり興味を持たれず「誰それ?」
とあしらわれがち。
日本では、沖縄で米兵にレイプされた女性は、政治家から
「露出度の高い服を着て、夜歩いていたからだ」
と言われます。
被害に遭った日本人女性よりも、レイプ犯の米兵の肩を持つような、
同胞の女性を最下位に置く国です。
それでも勇気を出して告発する女性が現れたら、本当にすごいと思い
ますが、普通は、そんな告発をしたら、自分や自分の身内が世間から
どのように見られるのかを考えてしまうでしょうし、差別的な目で
見られながら生きることになると想像してしまうでしょう。
「言い出せない」ってどんなに複雑なものか書いておきましょうか。
例えば私は、小学生のときに性犯罪の被害者になっています。
学校の帰り道、道を聞かれた男が、刃物を持った小児性愛者でした。
警察がやってきて、会議中だった父親も職場から緊急で帰宅して、
大変なことになりました。
いろいろ質問されました。だけど、その時私は本当にあったことを
全部言えず、「いたずらを受けた」程度にしか話せませんでした。
犯人は黒い服だった、Vネックだった、そういうことは答えられても、
被害の内容や手順は、あまりに恐ろしいことを口走る気がして、
大事なところでとうとう言葉が出てこないのです。
それに、母が卒倒しかけて、完全に狼狽していました。
母はもともと心の繊細なところがあったのですが、顔面蒼白で、
ガタガタ震えていました。
そこに警官から「その時パンツは…」と聞かれたりするので、
本当のことを話したら、もっと大変なことになってしまう、
子供ながらにそう感じて、封印してしまったのです。
恐怖に支配されていたのだと思います。
よく「減るもんじゃなし」という言い方で、女性なら流せるだろう
と捉える風潮があると思いますが、
私はこの被害にあった日の夜、お風呂で体を洗いながら、
かなりはっきりとこう思いました。
「自分は汚いものになった。自分の価値がなくなった」
まだ性教育も受けていない学年でしたが、今でも記憶しているほど
しっかりとそう思いました。
それから周りの子供を「子供らしくていいな」と思いながら眺める
子供になってしまったり、相当長い年月、ひっそりと自分の人格に
影響を受けることとなりました。
おかげで、本や妄想小説にのめり込んで文筆のほうが伸びましたし、
その後もいろいろあって、笑いしかない、の境地にまで達したので、
いまは四六時中ゲラゲラ笑ってますが、
もし思春期や大人になってからの事件だったら、自殺していたんじゃ
なかろうかと思います。
こういう話は、「ある特殊な子供の体験」とタイトルづけられれば、
そうなってしまうのかもしれないけれども、程度の差こそあれ、
被害を受けた側が沈黙してしまう過程や心情、恐怖に屈服したり、
卑屈になる心理など、なんらかの部分でパワハラ、セクハラに悩む
人々に通ずるところがあるのではと思っています。